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引退ブログ#3 峰岡拓真(第89代スナイプリーダー)


1年前。休部から復帰したての当時の自分の目標は、このチームを壊すことなく次の代へ渡すこと。自分の尻拭いをやり切ること。それだけでした。総合3位のためのクラス3位という目標順位は掲げたものの、個人的にはなんでもいい、そう思っていました。オフ期間に1つ下の後輩たちとミーティングしていると、いっそ自分も辞めて2年間かけて彼らの代をやった方が良いのではないかと思えてきました。復帰したは良いものの、負のサイクルからは抜け出せずにいました。


それからしばらく時が経ち、夏のレースシーズン。チームにはだんだん愛着が湧いてきました。過去3年間と春合宿頑張った甲斐あってか、メイレガッタでの全日本スナイプ出場権獲得に始まり、琵琶湖セーリングチャンピオンシップ準優勝、近畿北陸個人戦優勝、と自分が想像した以上の結果を出すことが出来ました。そこで初めて、自分も自分の代での結果を求めても良いのかもしれない、というある意味ヨット部員として健全な思考になりました。


しかし、大学院入試を終えた後、自分の中で何かが噛み合わなくなり、全日本スナイプ、個人戦本戦、と思うような結果が出ませんでした。正直、もう十分頑張ったかな。このまま適当に流して引退しても後輩にチヤホヤされるくらいにはやったかな。なんて考えたりしました。でも、それで後悔しないわけがない。この頃には、チームとして何かを目指すこと、それをリーダーとして掲げることはチームを背負っている以上やらなければいけないことだと考えるようになりました。10ヶ月前までなんでもいいとか言ってたくせに。



インカレまで残り55日。スナイプチームは、全国優勝を目指すことに決めました。身の丈にあってない?今更遅すぎるだろ?正気じゃない?そんなことは百も承知。これは俺のチームだ。責任は全部とる。

正直、頭のネジは数本飛んでいたのかもしれません。


現状維持は、後退。何度この言葉を口にしたかわかりません。配艇、練習内容、生活形態、ヨットに対する考え方。全てを1から見直し、破壊し、再構築しました。

オフを返上し、研究室に頭を下げ、他大学の練習に図々しく入り込み、ただひたすら頭と体を動かした55日。ただただ必死でしたが、この上なく充実していました。



結果は、既に出ている。インカレ本番は、これまでの答え合わせ。あとは楽しみにしながらベールをめくればいい。果たして。



ここからは、インカレ最終日のレース後から着艇までをありのまま書いてみます。少々臭いので、鼻をつまみつつお読みください。


〜〜〜〜〜〜〜〜

・レース後


最後のレースが終わった。最後やしちょっと攻めて前走ったろ、とか思っていたが、結局パッとしない順位。一時は早稲田と11点差の2位だったクラス順位も最終的には5位。まあ、なんだかんだでこんなもんだよな。と思いつつ、なぜか晴れやかな気分だった。


レース後は曳航ではなく帆走で帰ることにした。ゆっくり帰りたかったし、最後は「曳航準備〜」より「目標ハ〜バ〜(美しいビブラート)」って言いたかったからだ。でも曳航の方がインカレ感あったかな、と少し後悔。あと、個人的にはもう少し富士山が見えていて欲しかった。髙槻と最後までヒールトリム練習をしながら見た3日目の景色の方が引退っぽかった。心残りはそれだけ。


帰りの帆走中、ペアの岨が急に、いや〜僕も歳とっちゃいましたね、とか言いだすから何事かと思って見たら泣いていた。

あーあ。着艇まではかっこつけて我慢しようと思ってたのにさ。富士山綺麗じゃ無いから涙引っ込んだと思ったのにさ。お前が先に泣くなよ。そんなん泣くに決まってるやんか。そのコメントは全然泣けんけど。


それからハーバーに着くまで、いろんなことを思い出した。大地さんに「お前がチームを作るんや」と言われて入部を決意したこと。皆で泥まみれの浜を開拓したこと、同期とヨットの話をたくさんしたこと、それでもポツポツやめていったこと。部活が無理になったこと、それでもなんだかんだ戻ってきたこと。ついに一人になった最後の1年間。そしてこれからの京大ヨット部。二人で感傷に浸った。



・着艇


頑張って涙を隠しつつバーゼルを引き上げる私の周りに、気づけばこの1年嫌になるほど見たにくたらしい顔がいっぱい近寄ってきた。揃いも揃って楽しそうな顔しやがって。お前ら大好きだよ。


新4年は病み上がりのごぼう1人だけ。クルーは今まで下級生だった子たちが突然最上級生。そんなスタートだった今年のスナイプチーム。例年通りなんてかけらも無い中で、きっと色々我慢させたこともいっぱいあったと思うけど、最後までついてきてくれて、最後にこんな良い表情をみせてくれて、本当にありがとう。


気づいたら自分はオェオェ泣きながら「ぁぃがどぅ」と連呼するモンスターになっていた。多分過去一不細工であった。よりによってライブ中継された。

ふと顔を上げると、走馬灯かと思うほどの、ありとあらゆる先輩方がずらり。感無量でした。本当にお世話になりました。



別にこの大会で何か大きな爪痕を残せたわけでもない。ミスをしなかったわけでもない。これが集大成だったと自信を持って胸を張れるわけでもない。なのに、後輩たちは私を胴上げしてくれた。5回も。今まで見た景色で一番高かった。また涙が溢れた。


〜〜〜〜〜〜〜〜

89代のインカレ成績は、470級11位、スナイプ級5位、総合8位に終わりました。

目標とは程遠く、とても満足のいく結果ではないように見えます。

そんな中自分は、悔いも悔しさも驚くほど全くありませんでした。


一人のスナイプリーダーをやり切ったこと、そしてその中でそこそこ実力のあるチームを作り、そこそこの順位が取れたことで、自ら自分を着地させてしまった部分があることは否めませんが、見えないように蓋をして押し込んだ部分はありません。


私は今まで満足いかない、どこか葛藤や悔いの残る引退を沢山目にしてきました。そして、その葛藤が時間と共に消化され、綺麗になっていく様子も。引退して1ヶ月がたった今、私はどちらが良い、悪いなんてないと思います。


本当は、満足するような中身では無かったのかもしれない。本音を言えば、もう少し悔しいと思いたかった。でもこれは、他の誰も得ることが出来ない、自分なりに走ったり歩いたり止まったり逆走したりした結果。自分だけのもの。大切にします。


また、私が満足して引退した理由は決して自分の身の上が全てではありません。あらゆる人々との関わりの中で生まれ、積み重ねられてきたものです。


ヨットなんて、言うまでもないほどマイナースポーツです。投げ出す理由なんていくらでもあるし、それと続ける理由は明らかに釣り合わないように見える。

しかし、私はインカレに来て思った。そんな不釣り合いが、どこかの誰かの苦悩が、涙が、笑顔が。ハイクアウトが、ロッキングが、沈が、逆ベンが。誰かを応援したいと思わせ、はたまた勝ちたいと思わせる。そういう熱が予選を経て、全国のあらゆるところから集まるあの場所は、特別に美しかった。そんな舞台で学生ヨット生活の最後に全力でレースをして、誰かの心を動かし、動かされる。この景色のほんの少しを自分が作り、その中でピリオドを打てたことは、本当に幸せでした。

インカレを運営していただいた方々、応援していただいたOB・OG・保護者の皆様、ライバルとなってくれた大学ヨット部、そして一緒に戦ってくれた京大ヨット部。すべての方に感謝申し上げます。この舞台を作っていただきありがとうございました。



第89代スナイプリーダー

峰岡拓真



おまけ

高校生の時、インターハイが中止になった。2年半やってきたことをどう昇華したら良いのかわからなくて、ただただ悔しかった。明らかに自分に適性がないヨットを大学でも続けたのは、そこも大きかったと思う。

あれから4年後、インカレ表彰式で陽哉の隣で賞状を貰った時、やっと完結した気がした。出着艇申告の字は相変わらずだった。

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